先日、高校までの生い立ちを投稿したら、ごくわずかな方々から「おもしろかった」というコメントをいただきました。
調子に乗って、それ以降の生い立ちになります。
(である調で書きました)
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高校を卒業し、一浪の末に東洋大学に入学した。
高校時代の私を知る人間なら、おそらく全員こう言うだろう。
「お前がよく大学生になれたなぁ。」
何しろ高校時代は野球漬けだった。朝から晩まで野球。勉強は常に後回し。そして後回しにしたまま、結局やらない。というよりもともとやる気ない。勉強への拒絶反応というか、高2の時だったか、GWくらいまで教科書買わなかったり。だから、もちろん成績は壊滅的。
そんなリアル偏差値30代の私だったが、浪人生活も半ばに差し掛かりやっと大いに反省して、がんばって机に向かった結果、なんとか東洋大学に入学することができた。はい、一生懸命がんばったら東洋大学が拾ってくれたわけだ。
そのためか母校愛はかなり強め。
箱根駅伝は毎年見るし、大学野球も気になります。最近はラグビー部が強くなったので、時間があれば観戦に行くなどなど。
そして当社のコーポレートカラーである「鉄紺」は東洋大学のスクールカラーだ。
ちなみに、大学では文学部国文学科に所属していた。
今でも思う。なぜ私は国文学科にいたのだろうか。
もちろん本は嫌いではなかった。井上靖、吉川英治、司馬遼太郎、椎名誠、宮本輝、高橋三千綱など、それなりに読んでいた。
ただし、だからといって文学研究への高尚な志があるはずもなく、女の子の多い学部がいいよなぁ、という程度の不純な動機だ。
もっとも、そもそも学部を選り好みできるような学力でもなかったが。。
大学生活は、ほぼアルバイトと野球サークルで構成されていた。
当時の優先順位はこんな感じだった。
アルバイト > 野球 > 睡眠 >>> 授業
授業とは空き時間に、気が向いたら行くものだ。そう信じて疑わなかった。
当然、成績はひどいものだったが、本人は意に介せず、いたって楽しく生きていた。
アルバイトは飲食店が多く、最初は銀座のスコッチパブ。
非常に厳しい店で、アルバイトのプロ(?)みたいな人もいて、厳しい上下関係の中、接客の基本から叩き込まれた。最終的にはお客様の前でのワイン抜栓やロースト肉を切り分けたりできるところまで任されるようになった。今思えば、社会人として最初に鍛えられた場所だったのかもしれない。
また、別の和食店は、スーパードライ全盛期のアサヒビール直営店だった。オープニングイベントでは芸能人が次々にやってきた。高校時代のほとんどを五分刈りというおしゃれヘアーですごした私には衝撃だったことを覚えてる。
そして、大学3年から4年にかけては地元のステーキハウスで働く。
4年生になる頃にある重大な事実に気づく。
「オレ、飲食店ばっかりやってるのに調理場やったことないじゃん。」
バイトもあと1年、せっかくだからやったことないことやろうと思い、厨房へ異動させてもらい、最後の一年は調理場で働いた。
これが本当に楽しかった。今でも自分で料理をするのが好きなのは、この時の経験が大きいと思う。
そんなこんなで時代はバブル絶頂期。世の中全体が浮かれていた。
大学4年になると、段ボール箱何箱分もの求人票が届く。今の学生さんが見たら驚くだろう。求人サイトはなく紙の時代。しかも内藤個人あてに大量にとどく。
ただ、私は就職活動にほとんど興味がなかった。当時の私は就職どころではなかったのだ。
なにしろ4年生になった時点で取得しなくてはならない単位が44単位も残っていたのである。
就職できるか、ではない。卒業できるか、である。
だから重い腰をあげて、会社説明会に行き始めたのは、ようやく夏頃になってから。。
食品関係の会社がいいかな。食べるの好きだし。その程度の志望動機。
そして、なんとなく参加した会社説明会で、なぜか面接に呼ばれ、なぜか内定をもらった。
説明会には大幅に遅刻して。。今なら完全にアウト。それでも内定が出た。そんな時代だった。
親父に社名を伝えると、「そんな会社知らねぇな」と言われ、ムキになり、「絶対そこに行くから」と、めでたく決定&就活終了。
どうも、親父は自分が勤める会社に入れたかったようだ。ウチの場合は、兄貴も姉貴もなぜか教員になっていたので、ひとりくらい自分(親父)と同じ会社に入ってもらいたかったのかもしれない。
しかし当時の私は、「縁故採用? 絶対イヤだね」とはなからNGだった。
なお一応、文学部なので卒論がある。
3年生の時、時間割の関係でとったゼミが江戸中世文学。
俳句研究者の若き教授が与謝蕪村をやっていた。
だから卒論のタイトルは「与謝蕪村研究」。副題は「萩原朔太郎から見た蕪村」。
締め切りが迫り、大急ぎで書いた卒論に温情でOKをくれた当時の若手教授こそ谷地快一先生。
その後、芭蕉会議で何十年も付き合うことになるとは。。
だれが想像しただろうか、
いやしまい。
というわけで、結局4年生にして54単位取得して奇跡的に卒業。
そして春からT社へ入社するのであった。
社員300名ほどの会社でしたが、同期は21名。しかも女性16名。
目黒雅叙園での入社式。いかにもバブル。
新入社員研修が始まり、初日の自己紹介で違和感を覚える。
「私、翻訳者になりたくて入社しました」
「僕も翻訳者志望なんです」
「将来は翻訳の仕事がしたくて」
翻訳、翻訳、翻訳。みんな翻訳の話ばかりしている。
私は隣の女性に聞きました。
「なんでみんな翻訳者になりたいの?」
すると彼女は驚いた顔で言う。
「え? だってこの会社、翻訳会社だからだよ?」
私は聞き返しました。
「翻訳会社?」
「うん」
「この会社が?」
「そうだよ」
「・・・知らなかった」と私。
彼女はしばし沈黙。
そして、「ナイトーくん、もしかして本当に知らなかったの?」
「はい。本当に知りませんでした。」
これは、実話だ。
説明会で何を聞いていたのかと言われると、私にもわかりません。
遅刻しましたし、だれかが印刷系の会社みたいなこと言ってたし。。
高校時代、英語で赤点を取り、冬休みに英語のY先生に呼び出され、
「将来は絶対に英語が必要になるからがんばれ」と言われ、
「先生、大丈夫です。ボクは英語とはまったく無縁の人生を歩んでみせます」
と言い切った男。
そんな私が、翻訳会社に入社していた。
人生とは本当にわからない。
Y先生に泣いてわびたいです。
そして、入社からわずか2週間後。
翻訳会社だと知らずに入った英語嫌いの男は、まさかの「翻訳事業部 営業課」に配属されるのだった。
とにもかくにも、私のサラリーマン生活は波乱含みでスタートだった。(ただの不注意だけど。。)
時は1992年。
この年はその後、「バブル崩壊元年」とも「失われた10年の最初の年」ともいわれる。
私はまだ知らない。
英語嫌いのこの男が、この業界で30年以上飯を食っていくことになることも。
やがて翻訳会社を経営することになることも。
そして、英語という言葉が、自分の人生そのものになっていくことも。
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このペースだとどのくらいかかるのか、若干不安ですが、気が向いたときに続編投稿させていただきます。

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