生い立ち(3)サラリーマン編 ~激動の「失われた10年」を生きる~

長く間が空いてしまいましたが、私の「生い立ち」3回目です。
社会人として第1歩を踏み出した時からが書かれています。
私としては、なんか人生の記録です。

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翻訳会社だとも知らずに入ったT社。
当時のT社は、CI戦略みたいなことをやっていて、自分たちのことを「翻訳会社」とは呼ばず、「マニュアル会社」と呼んだ。
そして、そのマニュアル会社T社が目指していたのは、なんと「マニュアル業界の電通・博報堂」。
名だたる日本企業に対し、「マニュアルの企画・設計」をベースにしたプレゼンテーションを仕掛ける。それが好評を博し、受注を伸ばす。
日本語マニュアルをつくり、印刷する。そして英語化、多言語化する。
つまりは、翻訳が大部分を占める。
そんな流れで売上をどんどん伸ばしていた。

当然、会社の組織もそれに合わせてできていた。圧倒的多数を占めていたのは、日本企業をクライアントに持つ「マニュアルグループ」。
そんななか、ボクが配属されたのは、伝統ある。。いや、ある意味では取り残された感もある「翻訳事業部」だった。
総勢20名ほどの割と日陰のグループ。
ボクは新人のくせに思った。
「あれ? これ、出世できないパターンじゃないか?」
サラリーマンの悲哀を、入社早々味わうことになったのである。

たしか新人研修は半月ほどで終了した。
その後はOJTという名の、実地訓練が始まった。営業部のボクは、上司や先輩社員についてお客様回り。
わが翻訳事業部は、大手外資系企業が売上の圧倒的大部分を占めていた。
いまのようにオンライン営業なんてない。営業は、足で稼ぐ。ひたすら会う。そのために歩き回る。
上司や先輩からは、名刺の出し方から営業の仕方、そして営業中のさぼり方まで、いろいろなことを学んだ。
しかし、何度も言うように、時代は1992年。
後年、「失われた10年」はこの年から始まったといわれる。
バブル崩壊の波は、確実に、そして容赦なく中小企業から押し寄せてきた。
ある日、臨時の全体朝礼が開かれた。
会社の状況説明。
そして、その後に行われたのが、関連会社への出向という名のリストラ勧告だった。
ちなみに当時は、まだ「リストラ」という言葉が一般的ではなかった。
だから後になってから、「そういえば、あれってリストラだったんだよなぁ」なんて語り合うことになる。

幸い、ボクは対象ではなかった。
しかし、全社員の3分の1ほどが対象になった。
会社中が騒然とする中、当然、新人のボクなんか、完全にほったらかしである。
ボクは、やることがないので、飛び込み営業を敢行した。
毎日エリアを決め、会社情報を持つ。
そして、ひたすら飛び込み営業。
いまのボクには、とてもじゃないが、そんな気力も体力もない。
でも、社会人になりたてのボクは違った。
なんだか知らないけど、「仕事をしている、社会人をやっている」そんな実感があった。
そして、それが面白かったし、やりがいもあった。
思えば、あの飛び込み営業で学んだことは本当に多かった。
ビジネスの厳しさ、仕事を取ることの難しさ、そして、仕事を取ることの面白さ。
また、東京の地理、会社の所在地、街の雰囲気などなど。
ボクにとって、あれは最高の社会人研修だったような気がする。

その後のT社はさらに激動する。
大規模なリストラ、そして、ちょっとしたお家騒動があり、目黒のインテリジェンスビルから、倉庫として使っていた浜松町のビルを片付け、そこへ移転することになった。
自主退職者もどんどん増え、気がつけば、会社の規模は入社時の半分くらいになっていた。
普通なら、「この会社、大丈夫か?」となるのかもしれない。
でも、ある上司がボクに言った。
「こんなこと経験できるなんて、ある意味ラッキーだね」
なるほど、確かにそうだと、ボクは思った。
そして、そんな会社が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
辞めるなんて、考えもしなかった。
本来なら、入社1年目、2年目の若造が引き継げるわけもない有力顧客。
でも、人がいないからボクが引き継ぐ。新人なのに、大きな仕事を任される。
そして、1年目にやっていた飛び込み営業で、ちょこっと成果も出る。
そうなるとどうなるか。
若造は、あっという間に調子に乗る。
当然である。ボクはくそ生意気な営業の若造だった。
大先輩にも食って掛かった。
いま思えば、本当に申し訳ない。
「生意気言って、申し訳ございませんでした!」
ここで言っても遅いのだ。

そんなボクを、入社当時、友人は言った。
「お前なんて、1年もたないと思うよ」
でもボクは、「じゃあ、とりあえず3年はいてみよう」と思った。
3年経過すると「じゃあ、5年は頑張ろう」となった。
相変わらず、生意気で敵の多い営業マンではあった。
でも、その分なのか、いろいろ面倒を見てくれる先輩や同僚も多かった。
そこは、いまでも感謝しかない。
そして、5年が過ぎた。
入社当時、21人いた同期のほとんどが、もう会社にはいなかった。
そんななか、わずかながら部下ができ、ボクは、一応、管理職になっていた。
その頃からだったと思う。
あれほど懐疑的だった「会社」というものを、ボクは少しずつ好きになっていった。
創業者で代表でもある女性経営者の言葉や個性的な社員たちの言葉。
昔なら、「何を言ってるんだ」と思っていたことが、いつの間にかすっと耳に入ってくるようになった。
ボクは、おそらく少しだけ成長したのだと思う。
何が成長したのかと聞かれると、正直よくわからない。
ただ、ものの見方や感じ方が変わってきた。
以前のように、とんがっているだけではない自分がいた。

26歳の終わりに結婚したボクは、気がつけば30歳になっていた。
T社は、バブル崩壊後にやってきたITブームのなかで、外資系IT企業の翻訳に新たな活路を見出していた。
ボクは初めて「T社で働く意味」を真剣に考えた。
もしかしたら、人生で初めてだったかもしれない。
うまく言葉にできない、もやもやしたものが、ボクの胸の奥に残った。
そんな時だった。
ある人生の大先輩が、ボクに言った。
「内藤さぁ、お前、独立しろよ。」
ずっと心の奥に封印していたものが――
少しずつ、少しずつ、湧き出してきた。

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次回は「起業編」ですね。



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