生い立ち(1)

2回に分けて「内藤への100の質問」を掲載しました。
ひとまず自己紹介という位置づけでしたが、「生い立ち」や「人となり」をもう少し詳しく知りたいという声もわずかながらいただきましたので、改めて自己紹介をしたいと思います。

出身は東京・江戸川区の葛西です。
出身はと聞かれたら葛西と答えていますが、出生地は名古屋です。
名古屋の聖霊病院にてこの世に生を受けました。東京生まれの祖父、父と続く三代江戸っ子を狙っていましたが、生まれた瞬間にその夢は叶いませんでした(笑)。家族は上野の長屋育ちの頑固な父を中心に、母、兄、姉という、いわゆる“ザ・昭和サラリーマン家庭”だったと思います。

その後、3歳を前に津田沼へ、小学校入学前に葛西へ引っ越してきました。
道路を隔てた向かいにある第六葛西小学校に通い、その後、歩いて15分ほどかかる葛西中学校に進みました。
マンションに囲まれた小学校は、外部から移ってきた生徒がほとんどで、私たちはその小学校の初代の新入生として迎えられました。すべてが最新設備で真新しい環境でした。一方、中学校は名前からも分かるように地元で一番古い中学校で、机から靴箱、鉄棒に至るまで、どこか歴史を感じる、言い方を変えれば古い学校でした。また葛西が漁師町だった頃からの歴史を持つ地域のため、生徒同士が親戚同士というケースも珍しくなく、おじさんと甥といった関係が同級生ということも普通にある世界でした。
さらに学区域の境界の関係で、第六葛西小学校出身者は全校生徒の約1割程度という少数派でした。葛西小学校が約5割、第二葛西小学校が約3割を占める中での入学だったため、中学入学時は“地方の中学に転校したような感覚”だったことを覚えています。

そんな転校生気分だった内藤少年も、中学3年間で地元方言である葛西弁をすっかり身につけ、葛西ネイティブへと変化していきます。
葛西には漁師言葉と江戸弁と東北弁が混ざったような独特の「葛西弁」があり、以前毎日新聞のコラムでその表記を見て驚いたことがあります。
「もういいから帰ろうか」を「もっ、いっから、けってっぺ。」と言っていた自分が、中学3年の冬期講習を原宿の代々木ゼミナールで受けた際、周囲との言葉の違いに気づき、ある種のショックを覚えたことを今でも思い出します。それ以来、「葛西を出たい」と強く思うようになりましたが、振り返れば葛西中学校での3年間が、その後の人生に大きな影響を与えたのは間違いありません。

「♪おおー、光あれ、葛中われら!♪」
これは葛西中学校の校歌の最後の節で、卒業生なら誰でも知っているといわれています。
卒業して何十年経った今でもこの校歌を覚えていることを考えると、「葛西を出たい」という気持ちの裏側には、確かに葛西愛が芽生えていたのかもしれません。

中学卒業後は、亀戸にある都立城東高校へ進学しました。
野球部に入部し、まさに野球漬けの高校生活でした。
都立城東高校は甲子園にも出場経験があり、いまでは都立の強豪校として知られていますが、私が在籍していたのはまだ強くなる前の世代でした。
甲子園出場の年に行われた慰労会では、上級生から「甲子園世代は猛練習と言っているが、練習量だけならお前らの代も負けていなかった」と言われるほど、毎日が野球漬けの日々でした。
ポジションは投手と一塁手、打順は一応3番でした。エースがいたため基本は二番手投手でしたが、そのエースが故障がちだったこともあり、夏の練習試合ではほとんど私が登板していたように思います。でもそれは、私にとってたいへん幸せな経験ともいえるものでした。

高校1年のある時期、どこも悪くないのにボールが投げられなくなりました。正確に言うと、マウンドに上がると投げられなくなるのです。
まだ「イップス」という言葉が一般的ではない時代でしたが、間違いなくそれはイップスでした。投手をやめる以外に解決策はないと判断し、それ以降は一塁手に専念しました。不思議なことに、投手をやめると普通に投げられるようになり、バッティングピッチャーも問題なく務まりました。
そんなある日、3年生によるゲーム形式の練習が行われ、1・2年生が守備に就きました。2年生になっていた私は一塁手として出場していました。
その時、その年に顧問になったばかりの先生から呼ばれました。
「また怒られるのかな」と思いながら向かうと、先生は一言、「次、投げさせるから準備しなさい」とだけ言いました。一瞬、1年前の光景がよみがえりました。「オレは…ピッチャーは…」と言いかけると、先生はじろりとこちらを見て、「抑えたらピッチャーにしてやるよ」とニヤリと笑いました。

その瞬間、何かがはじけたように感じました。
マウンドに立ちながら思いました。「そうか、抑えればいいんだ。なぜそれに気づかなかったのか。」
これまでの私は、上級生に対して「当ててはいけない」「いい球を投げなければいけない」「打ってもらわなければいけない」と考えすぎていました。その結果、徐々に腕が振れなくなっていたのです。
キャッチャーは3年生のレギュラーでした。「ナイチン、大丈夫か?変化球投げられるか?」と聞かれ、「まっすぐだけでお願いします」と答えました。
初球。思い切って腕を振る。「投げられた!」という強い思いがよぎりました。
2球目、変化球のない私はスローボールを投げました。予想外の緩い球にタイミングを崩された先輩が空振りをしました。
「よしっ」
その瞬間、胸にあったのは確かに闘争心でした。闘う気持ちのない者は、マウンドに立つべきではない。そう実感した瞬間でした。
その日から、私は投手に復帰しました。

今振り返ると、高校野球から多くのことを学びました。
顧問の先生はよく「勝つための野球」と「全員野球」という言葉を使っていました。
当時の私は、「勝つこと」と「全員で野球をすること」の両立は難しいのではないかと感じていました。
チームスポーツでは、全員が仲良しというわけではありません。むしろ、チームとして戦う前に、チーム内での競争があるからです。
エースがいるので私がエースになれないように、私が一塁手としていることで他の選手がレギュラーになれないこともあります。
理想的にはベストメンバーが最も強く、勝つためにはそれを固定するのが合理的です。実際、私の高校も基本的にはレギュラーは固定されていました。

しかし先生は「全員野球」という言葉を使い続け、控え選手やマネージャーにも明確な役割と責任を与えていました。
その意味が少しずつ分かり始めたのは、2年と3年の間の春休み明け頃だったように思います。
詳細はここでは伏せますが、ある試合でのチームメイトの行動を見たとき、「全員野球」の本質に気づいた瞬間がありました。

「全員野球とは、全員が同じ目標を持ち、全員が目標達成に向けて自分のできることを精一杯行うこと」
私の「全員野球」への結論です。「全員野球」とは全員が試合に出ることではありません。
適材適所の中で、それぞれが役割を全うすることがチームの強さになります。

私の組織マネジメントの原点は、この高校野球の経験にあると言っても過言ではありません。
それぞれが自分の役割を理解し、力を発揮できる組織をつくること。
その考え方は、今も私の会社経営の根底でもあります。

次回につづく



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